大判例

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大阪地方裁判所 昭和32年(ワ)4328号 判決

原告 小畑次郎

被告 株式会社河内銀行

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し金九〇〇、〇〇〇円及びこれに対する昭和三二年一〇月三日から支払済まで年五分の割合の金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決と仮執行の宣言を求め、その請求原因として、

「(一) 訴外日本寒天株式会社(以下訴外会社と略称)は被告銀行に対し通知預金債権金一、〇〇〇、〇〇〇円を有していたものであるが、原告は訴外会社に対し大阪簡易裁判所昭和二九年(イ)第二一八七号和解調書に基く金九〇〇、〇〇〇円の貸金債権を有していたので右債権の執行として、原告は訴外会社が被告に対して有する通知預金債権金一〇〇〇、〇〇〇円の内金九〇〇、〇〇〇円につき大阪地方裁判所(昭和二九年(ル)第三八五号事件)より右債権の差押並びに転付命令を受け右命令はいずれも昭和二九年九月二〇日被告及び訴外会社に送達された。

(二) しかるに被告は右通知預金債務の支払をしないので原告は被告に対し右通知預金九〇〇、〇〇〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和三二年一〇月三日から支払済まで年五分の割合の損害金の支払を求めるため本訴に及んだ。」

と述べ、被告主張の抗弁に対し、

「被告主張の抗弁事実は争う。」

と述べ

乙第一号証は不知と述べ、その余の乙号各証の成立を認めた。

被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として、

「(一) 原告主張の(一)記載の事実は認める。

(二) 訴外豊化成株式会社及び訴外会社は昭和二九年五月一五日被告に宛て、金額を金五〇〇〇、〇〇〇円、満期を同年五月二九日、支払場所を被告銀行鶴橋支店、振出地、支払地を共に大阪市と定めた約束手形一通を振出し、被告は右手形を満期に支払場所に呈示して支払を求めたが拒絶された。そこで被告は、本件債権差押並びに転付命令送達当時、訴外会社に対し、すでに弁済期の到来している金五〇〇〇、〇〇〇円の約束手形金債権を有していた。被告は現在も右手形を所持している。

(三) よつて被告は右金五〇〇〇、〇〇〇円の約束手形金債権の反対債権をもつて昭和二九年九月二二日訴外会社に到達した書面で本件通知預金債務と相殺する意思表示をした。

(四) 仮りに訴外会社に対しなされた右相殺の意思表示が無効であるとすれば、被告は、右約束手形金債権の反対債権をもつて、本訴において原告に対し相殺の意思表示をする。」

と述べ

証拠として乙第一ないし第三号証第四号証の一、二第五号証を提出した。

理由

原告主張の(一)記載の事実は被告の認めるところである。

成立に争ない乙第五号証と同号証により成立を認め得る乙第一号証によれば被告主張の(二)記載の事実を認めることができる。

従つて本件差押並に転付命令が被告に送達された当時、被告は訴外会社に対しすでに弁済期の到来している金五〇〇〇、〇〇〇円の約束手形金債権の反対債権を有していたから、被告は転付債権者たる原告に対し右反対債権による相殺をもつて対抗することができる。

成立に争ない乙第三号証によれば被告主張の(三)記載の事実を認めることができる。

しかし相殺の意思表示をなすべき相手方は自己の債務を履行すべき相手方たる債権者(受動債権の債権者)に対してなすべきものであるから転付債権の債務者が転付債権者に対し相殺をもつて対抗する場合には、その相殺の意思表示はこれを転付債権者に対しなすべきである。(最高裁判所第二小法廷昭和三二年七月一九日判決)従つて被告主張の(三)記載の相殺の意思表示は無効である。

しかし、被告が昭和三三年一月一三日の口頭弁論期日において、原告に対し前記約束手形金債権を自動債権として相殺の意思表示をしたことは記録上明かである。

よつて右相殺の効力について判断する。

(1)手形債権を自動債権として相殺をするには相殺の意思表示の外手形を相手方に交付することが必要である。(2) 手形債権額が受動債権額を超える場合は、残余の金額の請求及びこれについての遡及権行使のため必要であるから、手形を相手方に交付することは必要でないが手形を相手方に呈示することが必要である。(1) の手形の交付の必要性は(イ)手形債務者に二重払の危険をさけさせるためと(ロ)手形債務者が遡及義務者の場合再遡及権行使に必要なために基く。(2) の手形の呈示の必要性は(イ)相殺の相手方に相殺が手形の正当な所持人によりなされるか否かを知らせるためと(ロ)相殺により手形債権の一部消滅した旨を手形に記載することを請求する機会を相殺の相手方に与えるためとに基く。すなわち(1) の手形の交付の必要性も(2) の手形の呈示の必要性も手形債務者の利益のために認められた相殺の効力発生要件である。

しかるに、手形債権を自動債権として、訴訟上、攻撃防禦方法として、相殺の意思表示をする場合はすべて、訴訟外でする場合と異なり、手形を相手方に交付することを必要としないとする見解がある。(東京高等裁判所第四民事部昭和二九年六月十四日判決)

しかし、私法上の形成権である相殺権の行使の意思表示とその効果の陳述である訴訟上の主張や抗弁とはその構成要件を異にする別個の行為であつて、私法上の形成権である相殺権の行使の意思表示の効力の有無は私法上の効力要件を充足しているか否かによつて判定されるべきである。相殺権行使の意思表示が訴訟上なされたすべての場合に訴訟上なされたというだけの理由によつて私法上の相殺の効力要件が緩和されることはない。

反対説に対する反論は基本的には以上につきるのであるが、以下更に一応想定され得る反対説の論拠について検討を加えてみる。

(1)  相殺の抗弁を判決によつて判断されることによる手形債務者の利益

手形の受戻によつては二重払の危険を決定的にさけることはできない。例えば受戻をした手形を紛失した場合に手形債権者が不法な手段で除権判決を得たとき。

そこで反対説は「相殺が訴訟上行使され、判決理由中でその効果について判断されたときは、自動債権たる手形債権の存否について相殺をもつて対抗した額について既判力を生じ、相殺によつて請求を排斥された場合においても、手形債務消滅の証拠は紛失の危険はない。すなわち手形債務者にとつても利益がある。」と説く。

しかし右の利益は裁判外でなされた相殺の意思表示について判決理由中で判断された場合にも同様に生ずる。

(2)  訴訟経済

「原告が提起した受動債権の存在確認又は給付訴訟において、被告が受動債権の存在を争い手形債権を自動債権とする相殺の抗弁を予備的に主張する場合でも、手形を交付しない限り当該訴訟において自動債権の存否について一挙に判断を受けられないとすれば、訴訟経済に反する。」

しかし、単に訴訟経済という理由だけでは私法上の効力要件が緩和されることはない。

(3)  「訴訟上の相殺は裁判所の判断を受けるときにのみ相殺の効果を生ぜしめる条件付の相殺の意思表示である。」

しかし私法行為は訴訟上なされた場合にも私法上の効力要件を充足する限り、その効力は確定的であると解すべきである。

仮りに条件付意思表示であると解しても、このことから私法上の効力要件を緩和する理由は出でこない。

(4)  「手形金請求訴訟において裁判所が相手方に手形金の支払を命ずるには手形の交付を必要としない。」(前記東京高等裁判所判決理由)

しかし手形金の支払を命ずる判決に基く強制執行の場合においても、手形債務者は手形の交付を求めることができる。(大審院第一民事部明治三七年一〇月二二日判決)

そこで手形債権を自動債権とする相殺の効力要件を更に考える。

手形の支払の場合、手形債権者は手形の交付と引替えに支払を受けることができる。手形債権を自動債権とする相殺の場合、手形債権者は手形の交付と引替えに受動債権が相殺によつて消滅したことを確認する書面及び債権証書(受動債権が全部消滅する場合)の交付を求めることができる。すなわち手形交付義務と受動債権消滅確認書・債権証書交付義務とは同時履行の関係にあると解すべきである。従つて受動債権者が自己の義務を履行しないときは、手形債権者が手形を交付しなくとも相殺は有効である。受動債権者は自己の義務を履行しない限り相殺により手形債権の全部又は一部消滅した旨を手形に記載することを手形債権者に請求することもできないと解すべきである。

従つて受動債権者が受動債権に相殺をもつて対抗できる手形債権の存在を争い、自己の義務を履行しない意思明確である場合は、手形債権者は相殺をするにあたり、手形交付義務の履行の提供としての手形の呈示(自動債権額が受動債権額を超過する場合は、相殺により手形債権が一部消滅した旨を手形に記載することを請求する機会を与えるための呈示)をする必要はない。しかしこの場合でも、転々流通する手形の特質上相殺をする者が手形の正当の所持人であるか否かを受動債権者に判断させるために手形の呈示は必要である。もつとも受動債権者において相殺をする者がその主張の如き記載のある手形の所持人であることを積極的に認めた上偽造であると主張しているような場合であれば手形の正当な所持人であるか否かを判断させるための手形の呈示も必要でない。

訴訟上の相殺にもどつて考える。

原告が提起した受動債権の存在確認又は給付訴訟において、被告が手形債権を自動債権として相殺する場合、まず、被告が手形の正当な所持人であるか否かを原告に判断させるための呈示は、相殺の効力が当該訴訟において判断される限り、必要でない。けだし、被告がその主張の如き記載のある手形の所持人であることを原告が争う場合においても、被告が手形の正当な所持人であるか否かは結局当該訴訟において確定されることであるからである。もつとも右事実が争われる限り、被告は右事実証明のため証拠として手形を提出する必要はあるであろう。(原告欠席の場合でも提出できる。)

原告が提起した受動債権の存在確認又は給付訴訟において、被告が手形債権を自動債権として相殺の意思表示をしたとき、原告が、受動債権に相殺をもつて対抗できる自動債権の存在を争う場合(手形の呈示あるまで相殺の抗弁事実に対する認否を保留しかつ再抗弁しない場合は含まないが、手形の呈示あるまで相殺の抗弁事実に対する認否を保留しながら他方において再抗弁する場合を含む)原告は被告の手形交付義務(自動債権額が受動債権額を超過する場合は相殺により手形債権が一部消滅した旨手形に記載する義務)と同時履行の関係にある原告の義務(受動債権が相殺によつて消滅したことを確認する書面・債権証書交付義務、当該訴訟において受動債権が相殺によつて消滅した旨陳述する義務)を履行しない意思明確であると認めることができる。従つてこの場合、当該訴訟において、手形の呈示及び交付をしないでなされた相殺の意思表示を有効であると判断することができると解すべきである。

本件についてこれをみるに、本件は自動債権額が受動債権額を超過する場合であるから、手形の交付の必要のない場合であるが、原告は受動債権に相殺をもつて対抗できる手形債権の存在を争つているのであるから、被告が手形の呈示及び交付なくしてなした相殺の意思表示を有効であると判断することができる。

よつて原名の被告に対する通知預金債権は右相殺によつて消滅したから、原告の本訴請求は失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用し主文の通り判決する。

(裁判官 小西勝)

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